ブラタモリのブラ記録 鹿児島。薩摩藩と石の関係。どうして薩摩藩は明治維新の主役となっていったのか?

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NHKの大人気シリーズ、ブラタモリ。見ているだけで癒されるし、勉強にもなります。その土地の歴史、秘話、地形に残された痕跡に出会いながら、街の新たな魅力・文化などを再発見していく番組です。

いつの日かその土地に行くチャンスがあったならば、その前にブラタモリの記録を読み返しておくことで何倍も楽しむことができると思い、番組の内容を忘れないうちに、このブログの中に「ブラ記録」としてポイントだけを記しておきたいと思います。

なぜ鹿児島は明治維新の主役となったのか?

江戸幕府を倒して新しい時代を開いた明治維新には、鹿児島で育った西郷隆盛、大久保利通、村田新八、海江田信之、大山綱良、小松帯刀といった数多くの英雄がかかわっていました。

江戸や京都から遠く離れた鹿児島の地から明治維新にかかわる多くの英雄がでてきたことは、鹿児島の持つ独特な地形や町づくりが大きく関係しています。

この鹿児島を700年以上にわたって治めた薩摩藩の大名「島津家」は、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れたにもかかわらず、幕末には江戸幕府と肩を並べるくらいに力を蓄えていました。どうして島津藩は大きな力を蓄えることができたのでしょうか。

島津藩による城と町づくり

島津家が江戸時代に鹿児島でおこなった「町づくり」に明治維新の原動力をみることができます。そして鹿児島の代表的な城であった「鶴丸城」の城跡から薩摩を成長させるきっかけとなったものを確認することができます。

鶴丸城跡は鹿児島市の中心部、鹿児島駅から鹿児島中央駅に向かってすぐのところにあります。鶴丸城は1602年、関ヶ原の戦いの後に築城されました。

堀の幅は13m、深さは80cmしかなく、今も歩道からすぐ近くに石垣を見ることができます。城の入り口付近の石垣には多くの弾丸の痕が残っています。これらの多くは1877年に西郷隆盛を盟主にしておこった武力反乱、西南戦争の弾丸の痕です。

石垣の高さも6.6mと低く、熊本城と比べて、堀の幅、深さ、石垣の高さのそれぞれが3分の1ほどしかありません。そして堀からたった60m入っただけで「本丸」に着いてしまいます。鶴丸城には天守もないため非常に無防備な城に見えます。

このように鶴丸城が無防備でも大丈夫だった理由は、本丸の裏にはある急な崖をもつ高さ108mの「城山」と呼ばれる山のおかげでした。

城山を登ると、上から見える「桜島」は絶景です。そこは平らな台地になっています。山の中にある平らな場所は「曲輪(くるわ)」と呼ばれ、戦いのときに兵士を置いて守りを固める区画でした。

城山にはこの曲輪が5か所もあり、鶴丸城が無防備なつくりでも大丈夫だったのは、城山の急な崖、斜面の下に鶴丸城をつくったからでした。鶴丸上の本当の守りのかなめは城山にあったのです。

なぜ城山は急な崖と台地があるのか?

鹿児島県を中心に広がる独特な地層に「シラス」があります。シラスは火山から噴き出した高温の火山灰、軽石、水蒸気などの火砕流が積もったものです。

城山でみることのできるシラスは、桜島の噴火によってできたものではなく、「姶良(あいら)カルデラ」から降ってきた火砕流でできたものでした。カルデラとは火山が噴火し地下のマグマがなくなったことで、山全体が沈没してできた巨大な穴のことを言います。

約2万9000年前、桜島の北側には「姶良火山」という巨大な火山があったと言われこの火山の大爆発で噴き出したのが700度を超える火砕流、なんと東京ドーム12億個分の火砕流が台地を覆い、熱と圧力で押し固められたできた地層が「シラス」なのです。

場所によってはシラスの厚さが100mもあるところもあります。桜島は姶良火山の噴火した約3000年後におきた火山活動によって誕生し、現在の地形になったと言われています。

シラスの特徴は、表面がもろく崩れやすいことにあります。姶良火山の噴火の直後は、あたり一面シラスでおおわれた真っ平な状態でした。

その後、雨により侵食された溝ができ、その溝の表面がもろく崩れることで長い年月をかけて垂直に侵食、切りたった傾斜ができあがり、雨で侵食されなかったシラスの最上部は平らなままで、結果、城山にみられるシラス台地が出来上がったのです。

鹿児島全体がひとつの要塞だった

実は鹿児島県の50%以上がこのシラス台地となっています。このシラス台地の特性を生かして、鶴丸城と同じように多数の要塞が鹿児島県のシラス台地のふもとにつくられました。

つまり鹿児島全体が巨大な城として機能していたのです。ですからその中心にある鶴丸城は無防備でも大丈夫だったのです。

鶴丸城が城山の下につくられたもう一つの理由は、城山からの湧き水でした。シラスが堆積する前の城山の地層は「泥岩」で水を通しません。

いっぽうシラスは水を吸収して少しずつ一定量の水を下に通すという特徴があります。よって泥岩とシラスの境目からは湧き水が一定量流れだします。城にとって水は欠かせません。

このようにシラスの特性と地形を最大限に生かした城づくりが行われていたのです。

鹿児島の町づくり、城下町をみる

鹿児島市内を走る路面電車に乗って城下町の秘密をみていきます。その手掛かりは線路にあります。

鹿児島駅前からいづろ通を結ぶ路線電車は直進がほとんどなく線路がカーブしています。これはいづろ通にある石灯篭(かつては船の灯台の役割だった)からもわかるようにかつては海岸線に沿った線路でした。

この線路から海側は島津藩によって埋め立てられ、その場所に貿易商を住まわせることで琉球を通して中国との貿易を拡大していきました。

これが島津藩の目指した国、町づくりでした。このことにより幕末の混乱期にも関わらず、藩は海外との貿易により多額の貯蓄ができていたのです。その額は藩の収入の3年分あったと言われています。

いづろ通から一つ隣の駅、「天文館」は南九州最大の繁華街・歓楽街です。このあたりは埋め立ててできた土地ではなく、もとからあったエリアになります。そしてここでも城下町づくりの工夫をみることができます。

このあたりは武士の居住地域でした。現在この繁華街を歩くとところどころ地面が高まっているところがあります。

この高まりは、もともとここを流れていた甲突川(こうつきがわ)の痕で、島津藩はこの甲突川の流れを人工的に付け替え、迂回させ、川の無くなったこの土地一帯を武士の住む街として新たに整備しました。

当時薩摩藩は全人口の25%が武士であったため、武士をたくさん一か所に集めるためにこのような川の付け替えを行いました。結果この城下町には5万人の武士が住む一大武士居住地となり、幕末に大きく影響していきます。

加治屋町から多くの英雄が輩出された

付け替えられた甲突川に沿ったところに「加治屋町」と呼ばれる場所があります。この加治屋町には「維新ふるさとの道」という薩摩の歴史を体感できる場所があります。

近隣に西郷隆盛生誕の場所もあります。そこからわずか150mのところには大久保利通生誕の地もあり、他にもこの加治屋町東郷平八郎、村田新八、大山巌、篠原国幹、吉井友実などの明治維新の英雄を数多く輩出しています。

このことは当時の鹿児島独特の教育制度にありました。郷中教育(ごうちゅう)と言われ、地域ごとに青年が子どもに学問や武芸を指導する教育システムで、その中で西郷隆盛と大久保利通はともに加治屋町地域の若きリーダーだったのです。

加治屋町は後に明治維新の英雄となる二人から直接教えを受けられる貴重な場所であったのです。

シラス台地の地形を利用した城・街づくり、中国との貿易による資金づくりと財政の健全化、そして独特の教育制度による人材育成。これらのことが明治維新の時代に鹿児島が主役となっていくことができた大きな要素であったのです。

早くから世界に目を向けていた薩摩藩と石の秘密

鶴丸城から海側に向かうと「台場跡」があり、かつて大砲を乗せていた石垣を見ることができます。

江戸にも1853年ペリーの来航をきっかけに造られた台場がありますが、鹿児島の台場はそれより前の1940年代に造られています。

薩摩藩は黒船が日本に来る何年も前に既に外国船からの攻撃を想定して、それに備えた準備が行われていたのです。

当時、ヨーロッパ・西洋の列強が日本を攻めてくる場合に使う航路は中国側から日本に入ってくる航路がいちばん考えられ、その場合、鹿児島は日本で最初に敵の来襲を受けることになってしまう場所に位置しています。

したがって薩摩藩はペリー来航の30年以上前からこの地域の防備に備えていました。この台場は「たんたど石」という石が加工されて積み上げられできています。

台場跡から北西に3kmほど行ったところに「たんたど」というバス停があります。この一帯は古くから「石切り場」でした。山から石を切り出して加工します。

ここの地層はおよそ50万年前にできた溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)の上に2万9000年前のシラスが堆積した地層となっていて、川の流れによって長い年月をかけてシラスが削られこの溶接凝灰岩がむき出しになっています。

溶結凝灰岩は火砕流が高熱と高圧で溶けて固まった岩石です。様々な種類がありますが、この一帯でとれる溶結凝灰岩を「たんたど石」と呼んでいます。

たんたど石の特徴は縦に亀裂が多く入っていることです。この亀裂は溶岩などが冷えて固まるときにできる割れ目で「(ちゅうじょうせつり)と呼ばれています。

この亀裂のおかげで、たんたど石は山からの採掘が簡単で、また切り出した石の加工も手軽におこなうことができます。

薩摩藩はこのたんたど石を台場建設だけではなく、様々な用途に使い発展させていきました。

薩摩藩近代化の立役者、島津斉彬(なりあきら)

薩摩藩の第28代当主、島津斉彬こそ近代化の立役者でした。そしてその近代化の舞台となったのが、仙厳園(せんがんえん)という島津藩の別邸で、たんたど石の採石場から北東へ3kmほど行った海沿いにあります。

仙厳園の謁見の間から庭園を望む景色はとても美しいです。

庭園の中には石灯篭がありますが、島津斉彬はこの石灯篭を使ってガス灯の実験をしていました。ガス灯というと横浜が思い浮かびますが、横浜でガス灯が生まれた明治5年の15年前に、すでに斉彬はこの庭園でガス灯をつくっていました。

庭園の中にはもともと竹林であった場所を切り開き、石を積み上げ「反射炉」が作られていました。反射炉とは18-19世紀ヨーロッパで生まれた鉄を精錬する金属溶解炉です。

斉彬は庭の中にこの反射炉をつくり、鉄を溶かし精製して大砲をつくりました。

当時の日本はまだ鎖国していたため、海外の技術者、材料、設計図は無く、斉彬はオランダの書物を参考に、実際には見たこともない反射炉をつくったのです。

そしてこの反射炉の土台として使われたのが「たんたど石」でした。加工しやすいたんたど石により非常に精密な石組をつくることができたのです。

さらに仙厳園を西に進むと江戸時代に建てられた77mと長い建物があります。現在は資料館となっていますが、幕末は機械工場でした。この建物の外壁にも薩摩独自の工夫があります。

この外壁には「小野石」という石が使われています。小野石は仙厳園から10km離れた小野町で採掘できる石です。なぜたんたど石ではなく、小野石が使われたのか?

その理由は小野石には断熱効果があり、夏は涼しく、冬は暖かいという機械工場に適した石であったからです。

鹿児島には複数のカルデラがあり時代ごとに性質の違った火砕流を吹きだしていました。よって場所は近くでも異なる溶結凝灰岩が複数存在していてその種類は20種類もあります。

「山川石」という溶結凝灰岩は表面に舌をつけてゆっくり離すと吸い付くような感触があります。これは毛細現象といって石の表面に細かい隙間がたくさんあるためにおこる現象です。

山川石はこのたくさんの隙間によって温度変化の影響を受けにくく、膨張や収縮しないため風化しにくい石です。薩摩藩はこの山川石をお墓の石に使いました。島津斉彬のお墓もこの山川石でできています。

薩摩藩は用途ごとに様々な石を使い分けることができた

庭園にはその後、反射炉だけでなくガラス工場や溶鉱炉も作られ、斉彬はこの場所を「集成館」と名付けました。

集成館の裏には山があり、高い場所から水を落とせる環境でした。斉彬はそこに目を付け、そこから下に落ちる水力によって風車を回し、大砲の穴を開ける動力としました。

この機械工場につながる水路の上流、集成館から北へ4kmほど登った場所は田んぼが広がり一帯には水路がめぐっています。

水路のスタート地点に行きます。地質図をみると鹿児島で溶結凝灰岩に囲まれた場所はここだけで非常に珍しい場所です。

薩摩の人々はこの加工しやすい地質を利用して水路をつくりました。斉彬はこの水路を工業用水として活用して近代化に役立てたのです。

もしこの一帯がシラス台地であれば水路を作ることはできなかったので溶結凝灰岩に囲まれ、かつその岩を加工して水路を作ることができたこの場所は奇跡の地とも言えるかもしれません。

そして何にもよりも凄いことは、このような鹿児島の地形、地質を当時の薩摩藩、島津氏が熟知していたことでしょう。島津斉彬はこの奇跡の場所を見逃さなかったのです。

様々な種類の火砕流堆積物を用途ごとに使い分けることで薩摩藩は鹿児島の近代化と明治維新を成し遂げていきました。

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