ブラタモリのブラ記録 関門海峡。下関・門司を結ぶ様々な難所について。

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NHKの大人気シリーズ、ブラタモリ。見ているだけで癒されるし、勉強にもなります。その土地の歴史、秘話、地形に残された痕跡に出会いながら、街の新たな魅力・文化などを再発見していく番組です。

いつの日かその土地に行くチャンスがあったならば、その前にブラタモリの記録を読み返しておくことで何倍も楽しむことができると思い、番組の内容を忘れないうちに、このブログの中に「ブラ記録」としてポイントだけを記しておきたいと思います。

関門海峡・下関、関門海峡はなぜ「関門」?

本州山口県(下関)と九州福岡県(門司)が海を結んで向かいあう海峡が関門海峡です。「関門」という言葉には「難所」というイメージがありますが、関門海峡は文字通り難所です。

海幅は狭く、わざわざ船で通りたくないような複雑な地形になっています。全長27㎞、幅は0.7㎞と世界の海峡と比べるとスケールも小さいのですが、他国と比べて圧倒的に勝っているのが1日に海峡を通る船の数で、現在約500隻が1日にこの海峡を通っています。

このように入り組んだ海峡にも関わらず1日に500隻もの船が利用しているのは、非常に優れた立地にあることが理由です。

韓国や中国から大阪や東京に向かう場合、関門海峡から波のおだやかな瀬戸内海を通ることで安全に航海することができます。関門海峡は古くは遣隋使や遣唐使にも使われた国際的航路なのです。船にとって難所だが通りたくなる海峡なのです。

それでは関門海峡のどこが「難所」なのかを検証していきます。

1つ目の関門は「狭さ」です。下関と門司を結ぶ関門橋の下あたりが関門海峡でいちばん幅の狭い場所で、およそ700mの幅しかありません。この幅を毎日大型船も含む500隻もの船が通っているのです。

2つ目の関門は「流れの速さ」です。2つの海から一番狭い場所に両サイドから潮が流れ込むため、潮の速さは時速20kmほどあり、船舶同士がぶつかってしまう危険性もあります。

このような難所を安全に運航できるように関門海峡には2つの光でワンセットの導灯(どうとう)が設置されています。船はこの2つの光が縦に一直線に見えるように船を進めれば安全に運航できるように工夫されているのです。

導灯は海峡内で特に幅の狭い5か所に設置されています。設置されたのは明治34年で当時のままの導灯が使われています。

3つ目の関門は「水深の浅さ」です。関門海峡は浅瀬の多い危険な海峡で昔から知られていました。

難所、関門海峡の成り立ちについて

下関の「火の山」から関門海峡と周りの山を見渡すことができます。実は現在本州と九州で分かれている両側の小高い山はひとつのつながった山でした。

そのことは両側ともにホルンフェルスという泥岩がマグマの熱で固くなってできた同じ岩であることから一つの山であったことがわかります。

そのひとつの山が長い年月をかけて侵食され削られ、両側のホルンフェルスが残り、真ん中のマグマが両側のホルンフェルスより先に削られ海峡部分となりました。この海峡部分は花崗岩でできています。

現在も海峡の岸辺の砂は花崗岩が風化してできた真砂(まさ)でできていることを確認することができます。花崗岩に海水がはいり削られ細い海峡ができると同時に、海の中にも風化した花崗岩である真砂が入っていくため水深の浅い海峡ができたのです。

下関の町にある関門とは?

下関の中心地である唐戸市場にいきます。下関がふぐの町になった理由は初代総理大臣伊藤博文が明治21年それまで禁止されていたフグの取り扱いを山口県にかぎり許可したことで下関がふぐの本場となっていきました。

海峡と同じように下関の町の中にも関門があります。

下関は京都から西につながる山陽道の最終地点で、陸と海の交わる場所でした。そこには「関所」があったのです。現在の亀山八幡宮の場所に関所がありました。

江戸時代に開発されたのが西回り航路。それまでの東回り航路に比べ波もおだやかで立ち寄る港も多かったため、多くの船が下関を通るようになりました。

港として大きく発展した下関は海上交通だけでなく人の往来も把握する必要があったため、下関に「関所」が置かれたのです。そして下関は幕末には倉庫業として大きく発展しました。

1866年にフランスで描かれた関門海峡の絵図を見ると海峡は「下関海峡」と表記されています。このことからもわかるように幕末までは海峡の中心地は下関だったのです。

それではなぜ「下関海峡」から現在の「関門海峡」へ名称が変わったのでしょうか?

その理由は門司の町に行くとわかります。

関門海峡・門司、関門海峡はなぜ関門?

門司にある旧大阪商船の建物(大正6年建)を見るとなぜ海峡の名称が変わったかがわかります。建物のタイルは「覆輪目地(ふくりんめじ)」という手法で作られています。

覆輪目地とはタイルとタイルの継ぎ目(=目地)を半円形に盛り上げることでレンガやタイルを美しく際立たせる手法です。

手間もお金もかかる覆輪目地は当時としてはタイルづくりの建物にとって最高級の仕上げでした。ですから覆輪目地は当時の門司がどれだけにぎわった町であったかを物語る痕跡のひとつなのです。

また明治中期の地図をみると、門司には大手銀行、商社、船社、新聞社など名だたる企業が建っていて、門司が近代都市として発展していたことがわかります。

門司が近代都市として栄えたいちばんの理由は門司のすぐ近くにあった「筑豊炭田(ちくほうたんでん)」でした。

北九州に広がるこの大規模な炭田は全国のおよそ半分の炭を産出していたのです。そして産出された炭は門司港に運ばれました。

門司港は炭鉱を積み出す港として明治22年に特別輸出港に指定され、門司港は国内お海外に石炭を運ぶ港、大都会として発展していったのです。

大正14年の地図をみると海峡の名前が「下関海峡」から「関門海峡」に変っています。幕末大きく発展した下関につづき、明治にはいって門司が大きく発展したことで、海峡を挟んだ両方の都市が大きく発展、海峡の名称も下関と門司からそれぞれ1文字とって「関門海峡」という名称に変りました。

下関と門司が栄えたことでこの2つの場所を結ぶ交通網の整備が急ピッチで行われていきます。

明治24年に開業した門司港駅は門司のシンボル、現在の駅舎は大正3年に建てられ国の重要文化財に指定されています。

この門司港駅を起点として鉄道網が整備され、門司港駅は本州に一番近い駅として九州の玄関口となりました。

さらに明治29年には、門司と下関を結ぶ「関門連絡船」が開通して本州と九州の行き来が盛んになっていきました。当時、門司港と門司港駅は地下道でつながっていて、港から鉄道への往来がしやすいように整備されていきました。

関門連絡船は、最盛期の昭和16年には、1日に53往復、1日の平均利用者が24000人もありました。人や物資だけでなく、列車ごと運ぶ船もありました。

このように大きくなってくると海上輸送だけでは限界となり、世界で初となる「海底トンネル」の建設が昭和11年に着工されることとなったのです。

世界初の「海底トンネル」の関門とは?

海底トンネルは上りと下りでそれぞれ2本のトンネルが別々に掘られています。これは万が一片方が事故にあっても、もう片方が使えるようにするための安全対策でした。

海底トンネルの関門のポイントはトンネルの形です。門司駅側から海底トンネルの入口部分の形は四角ですが、450m過ぎたあたり(地下12m)から縦長の楕円になります。

これは最初の部分はあらかじめ外で組み立てた四角いトンネルを埋め込む形で作られ、450m過ぎからは通常のトンネルのように掘りながら進めたため形状が違うのです。

さらに進むとこの形状がまた変わります。門司側入り口から900m進んだあたり(地下20m)で海峡の海底付近にさしかかる場所となりますが、ここから楕円ではなく正丸の形状となります。丸の理由はここからシールド工法でトンネルが掘られたためで、このシールド工法が海底トンネルの難関、関門でした。

シールド工法は筒状の機械で地中を掘り進めていくトンネルの工法で、シールドの外枠が盾となって、掘った部分の崩落を防ぎながら安全に掘り進めていく工法です。

現在では一般的となったトンネル工法ですが、実は関門海峡の海底トンネルは日本で初めてシールド工法が成功したトンネルでした。

当時難しかったシールド工法を海峡の海底付近から用いた理由は、この一帯の地盤が風化した花崗岩でできた真砂であり、弱かったことにあります。この地盤の弱さが関門トンネルのひとつめの関門でした。

さらに進むと海峡の最深部手前から下関までは通常の掘り方に戻るため、また形状が変ります。よってこの部分でシールド工法は終わったのですが、使った外枠のシールドはそのままその場所にコンクリートで固められ、現在もトンネルの内部外枠部分に残されています。

関門トンネル2つ目の関門は、トンネルの地盤崩落を防ぐため、外からトンネル内に絶えず高圧の空気を送る必要があり、作業員が気圧の影響を受けてしまうことでした。

作業員は気圧が急に下がることで起きる潜函病(せんかんびょう)にならないよう、外に出る前に気圧を徐々に下げる減圧室に入る必要があったのです。

関門トンネル3つ目の関門は、湧き水でした。弱い地盤から湧き水がでて作業を難航させました。また山のトンネルであれば傾斜をつければ下に水を逃がすことができますが、海底トンネルの場合は、海底の一番深いところを頂点にしたV字型となるため、どうしても一番深い部分に水が集まり溜まってしまうため排水する必要がでてきます。

この排水の機能を担ったのが豆トンネルでした。豆トンネルは「逆V字」型のトンネルで一番深いところに溜まった水を両サイドに流し、地上までポンプでくみ上げ排水するために作られたトンネルです。

V字型の関門トンネルを掘る前に、先ずこの豆トンネルが最初に作られました。豆トンネルの目的は、関門トンネルの地質事前調査、トンネル作業の資材運搬、そして排水にありました。

昭和19年(1944)、着工から8年を費やし関門トンネルは完成しました。

世界初となる海底トンネルの技術は、その後着工された国内外の海底トンネル、関門国道・人道トンネル(1958)、新幹線の新関門トンネル(1975)、北海道と本州を結ぶ青函トンネル(1988)、イギリスとフランスを結ぶユーロー海底トンネル(1994)にも生かされていきました。

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