ブラタモリのブラ記録 名古屋・熱田。名古屋の発展は徳川家康の町づくりからはじまった。

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NHKの大人気シリーズ、ブラタモリ。見ているだけで癒されるし、勉強にもなります。その土地の歴史、秘話、地形に残された痕跡に出会いながら、街の新たな魅力・文化などを再発見していく番組です。

いつの日かその土地に行くチャンスがあったならば、その前にブラタモリの記録を読み返しておくことで何倍も楽しむことができると思い、番組の内容を忘れないうちに、このブログの中に「ブラ記録」としてポイントだけを記しておきたいと思います。

名古屋と徳川家康の関係は?

織田信長、豊臣秀吉は尾張出身。信長、秀吉の時代、名古屋の中心は清須でした。1610年に清須にかわり現在の場所に城を建てたのが三河出身の徳川家康。

1600年に関ヶ原の戦い。1614年は大坂の陣。名古屋城はその間の期間に作られ、徳川家康は戦いに強い城として名古屋城を建てたのです。

名古屋城の強さのひとつをあらわすものに馬出(うまだし)があります。馬出は門の前に堀をつくり攻めにも守りにも強い空間としたものです。家康は馬出をつくり戦いを想定した強い城づくりとしました。

つぎの強さの秘密は石垣からわかります。空堀から水堀に向かう堀の石垣は、同じ堀なのに左右両側でそれぞれ異なった石を使っています。左側が花崗岩(かこうがん)。右側が砂岩(さがん)。

これは左右で堀を担当した大名が違ったからです。このようにたくさんの大名に担当を分担させて城をつくらせることを天下普請(てんかふしん)といいます。

名古屋城は天下普請でつくられ、費用は担当した大名がそれぞれ負担しました。名古屋城をつくるために動員された大名は豊臣系の大名で、名古屋城の建立は最後の決戦となる大阪の陣の前に豊臣系の財力を削ぐことが目的のひとつでもあったのです。

名古屋城の立地も熱田台地の北側のふちに建っており、守りとしては最適な立地です。また北側は盛り土をして広大な馬出をつくりました。

これは家康が名古屋城をつくるにあたり戦いの時代が終わった後の平和な時代を見据え、馬出を将来のユーティリティスペース(食料保管や避難場所などのスペース)として活用することを考慮していたと思われます。

名古屋城は延べ床面積では日本一の広さ。高さは江戸城、大阪城に続き3番目です。

名古屋城の城下町は、城の南に碁盤割(正方形状)に区分けされています。家康の作った城下町の区画は今でも名古屋に行くとわかます。1辺は100mの正方形です。

当時、城の前のこの碁盤割は町人が住んでいて、武士はその外側に住むという形で、家康は町人を優遇した町にしました。正方形に面した町家の入り口は東西だけでなく南北にも作ることによって、にぎわった町づくりを目指していることがわかります。(ちなみに大阪の町家は入り口が東西方向のみで南北の通りに面した入り口はありません)

東西南北に入り口を作ると、碁盤割の真ん中にスペースができます。ここを閑所(かんしょ)と呼んで町人が集まる交流スペースとしました。家康は町人中心の経済都市を目指したのです。現代ではこの閑所スペースはコインパーキングビルとなっているところが多いです。

テレビ塔で有名な久屋大通は碁盤割の一番東の区画をそのまま生かして作られています。

名古屋の経済発展は家康の町づくりからはじまった。

名古屋は400年前に徳川家康が一から作った町。台地の最北部にあるのが名古屋城。最南端に熱田神宮があります。

なぜ家康は台地を選んだのでしょうか?

熱田神宮には時の権力者、信長、秀吉、家康が熱田神宮に宛てた直筆の手紙が残っていることから熱田神宮が非常に大切にされていたことがわかります。

台地の最南端をさらに南へ行くと旧東海道と交わる道標があります。この東海道からの道はここで行き止まりになっているため南へ曲がり七里の渡しへ向かいます。

東海道は熱田と桑名の間だけ船で移動しました。ここを七里の渡しといいます。東海道から旅をした人はこの七里の渡しから船に乗ったため、熱田は港として栄えました。

なぜ旧東海道は陸地ではなく船で移動したのでしょうか?

この一帯は濃尾平野とよばれていて3本の大きな川が流れています。木曽三川といわれる、木曽川、長良川、揖斐川です。陸で行く場合はこの3本の川をそれぞれ渡らなければならなかったため船で移動することになりました。

濃尾平野の西側には養老断層があるため濃尾平野はおよそ300万年の時間をかけて東から西へ傾き、3本の川も西側へずれていきました。このため東側にあった熱田は川の氾濫を受けない安全な港として栄えることができたのです。

また熱田には前方後円墳も残っており、古く古墳時代から熱田が栄えていたことがうかがえます。

家康は古くから栄えた港である熱田が南の先端にある熱田台地に注目して城、城下町をつくり、熱田を名古屋の交易の中心にすることで名古屋の経済発展を狙いました。

現在も熱田の密集した家や近くの秋葉神社(火よけ)にも当時の熱田の繁栄の痕跡としてみることができます。またこの海側の地域は当時埋め立てられ拡張したものでした。

熱田台地は南北に7㎞あったため城下町から港までの距離が問題でしたが、家康は名古屋城をつくると同時に、台地のへりの斜面を使って水深を保った、城と熱田を結ぶ運河を作りました。この運河により城下町と熱田の港を結び交易を発展させたのです。

この運河が現在の堀川です。堀川は名古屋港の一部という認識であり、河川ではありません。水質も若干塩分を含んでいます。

徳川家康によって木曽の産地は尾張藩領として飛び地のような形で独占されました。

木曽の山から木材を木曽川に流し、熱田から堀川運河を使って名古屋城下町まで運ぶことで、名古屋は全国に向けた木材の流通拠点として大きく栄えていくことになります。

 

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