NHKの大人気シリーズ、ブラタモリ。見ているだけで癒されるし、勉強にもなります。その土地の歴史、秘話、地形に残された痕跡に出会いながら、街の新たな魅力・文化などを再発見していく番組です。
いつの日かその土地に行くチャンスがあったならば、その前にブラタモリの記録を読み返しておくことで何倍も楽しむことができると思い、番組の内容を忘れないうちに、このブログの中に「ブラ記録」としてポイントだけを記しておきたいと思います。
福井市のルーツは一乗谷にあった
福井市は江戸時代には越前松平家32万石の城下町、現在は人口26万人の福井県の政治・経済の中心都市です。
戦国時代にさかのぼると、朝倉義景(1533~1573)が現在の福井である越前を治めた戦国大名でした。
朝倉氏がつくった城下町は「一乗谷」と呼ばれ、その跡地は現在の福井市街地から10kmほど内陸に入ったところにあります。ローカル線で15分ほどの距離です。
この一乗谷は福井市を訪れる機会があれば少し足をのばして是非行ってみたい場所です。
今でも戦国時代に朝倉氏が築いた城下町の痕跡にふれることができます。
朝倉氏が築いたこの城下町は「幻の都市」とも言われています。
それは当時敵対していた織田信長によって城下町が焼かれてしまい、わずか100年ほどで消滅してしまった都市だからです。
ところが今から50年ほど前、消えたはずの町が土の下から姿を現したのです。
そして遺跡の中から新発見があいつぎ、ついに一乗谷は国の特別史跡にも指定されることになりました。
福井市内を流れる足羽川(あすわがわ)がさらに内陸で分かれその支流が一乗谷へ流れていきます。
この支流は「一乗谷川」と呼ばれています。 一乗谷はわずか1.7kmほどの奥行きの谷ですが、一乗谷川が流れるこの一帯だけに1万人もの人々が暮らしていたと言われています。
一乗谷は計画的に整備された都市
一乗谷の入り口には巨大な石組があります。
ここの住所は「城戸ノ内」で文字通りここが朝倉氏のつくった城下町の入り口でした。この巨大な石組が広大な城下町を外敵から守っていたのです。
この巨大な石組の先が城下町の中になります。
入っていくとこんどは低めの石が積み上げられ、暮らす人々の住居の区分けがはっきりわかります。 それぞれの区分けの中には四角い井戸が設置されています。
このことから当時の住居がそれぞれ井戸を持っていたことがわかります。
井戸だけでなくトイレの痕もそれぞれの区分けにみることができます。
一乗谷はすべての住居がそれぞれ井戸とトイレを持つという、計画的にインフラが整備された画期的な都市であったのです。
石の形から、庭があった家であることがわかる区分けもあります。
その区分けの中からは中国の医学書の一部が発見されたことから、そこは当時の最先端の医療技術を持った医者が住んでいた区分けであるとわかりました。
その他にも当時の生活がわかる様々な遺物が発掘され、国の重要文化財に指定された遺物は2000点以上あります。
なぜ400年以上埋没していた遺物が良い状態で発掘されたのか?
1573年、織田信長によって焼かれ町が消滅してしまった後、すぐにこの一帯は土で埋められ水田になりました。
このためこの一帯は400年の間真空パックのように保存されていたのです。
水があると腐ってしまうように思われがちですが、水が常にあれば腐らないのです。腐ってしまうのは水があったり、無くなったりすると腐ってしまいます。
現在の一乗谷のエリアには、発掘場所に上物を建てて、当時の町並みを再現したエリアもあります。
道の両側に土塀が続くエリアは朝倉の家臣が住んでいた武家屋敷のエリアです。
発掘したことで判明した遺物や遺跡を手掛かりとしてとてもリアルに再現されています。
通常の城下町では武士が住む「武家屋敷」のエリアと商人が住む「町家」のエリアははっきりと分かれているのですが、朝倉氏の一乗谷の城下町では、武家屋敷エリアの真ん中には商人が商売を営む町家が入り交じっています。
一乗谷のように武家屋敷と町家が並んで建つのは珍しいことです。 これは一乗谷の経済が発展していくとともにもともと武家屋敷であったところが町家に変っていったものでした。
なぜ山奥にある一乗谷が経済的に発展していくことができたのか?
町の中心に当主であった朝倉氏が住んでいた場所があります(一乗谷朝倉氏遺跡)。
一乗谷がなぜ経済的に豊かになっていくことができたかの秘密が、この一乗谷朝倉氏遺跡の井戸で発見されたヨーロッパ製のグラスの破片からわかります。
このグラスの破片はベネチアグラスの破片の一部でした。つまり遠く離れたヨーロッパと交易があったことになります。
一乗谷からは大型船の模型も発見され、当時一乗谷が日本海の水運を握っていたことがわかっています。
一乗谷という内陸の山の奥地にありながらも、一乗谷川から足羽川、そして九頭竜川から日本海へとつながって、一乗谷は世界へとつながり経済発展をしていくことができました。
このように栄えた一乗谷も信長によって焼かれ消滅してしまいます。そして城下町も現在の福井市の中心部にあたる広大な平野に移されました。
現在の福井城は一乗谷の遺産が受け継がれ残っている場所です。
江戸時代から福井の町の中心となった福井城。初代藩主であった結城秀康(ゆうきひでやす)が築いた福井城の本丸の跡地に行きます。
お堀を渡った入り口には復元された「白い石で作られた門」があります。瓦もすべて白い石で作られています。石を削って瓦にしています。
この少し緑がかった白い石は「笏谷石(しゃくだにいし)」と呼ばれる石で、大昔の火山灰などが固まってできた凝灰岩の一種、福井を代表する高級石のひとつです。
やわらかくて加工しやすいため、福井城ではいたるところで笏谷石が使われています。 そしてこの笏谷石は、一乗谷の住居にあった「井戸」の枠にも使われていた石なのです。
笏谷石が瓦などいろいろな分野で使われるようになったのは一乗谷の時代が始まりとされています。一乗谷では井戸枠だけでなく瓦や建築資材、日用品まで石を加工する高い技術がありました。
笏谷石こそ一乗谷の時代から福井の新しい時代へ引き継がれた遺産でした。
なぜ高級な笏谷石を大量に使うことができたのか?
福井城の西には足羽山(あすわやま)という山があり、この山はほとんどすべて笏谷石でできています。
良質な笏谷石は足羽山でとることしかできませんでした。
福井城から西へ2kmいったところにある足羽山のふもと付近にある丹巖洞(たんがんどう)という料亭の庭はすべて笏谷石でできています。
ここは昔、笏谷石を切り出していた石切り場でした。 実は一乗谷の時代から、笏谷石はこの足羽山から切り出し本格化していきました。
そして江戸時代になると美しく加工しやすい笏谷石が日本全国へ運ばれ売買され、福井に莫大な利益をもたらしました。
現在の足羽川は江戸時代には足羽山の近くを流れていたため、足羽川を利用して切り出した石を日本全国へ運んで行ったのです。
川から海へ水運を利用して経済発展していくということは、一乗谷時代の知恵が江戸時代にも福井の城下町で生かされていたということになります。
福井城の西にある市街地に、住所に「一乗町」という名前が残っている場所があります。
このエリアはかつて一乗谷に住んでいたが戦火によって谷を追われた職人や商人が移り住んだ場所でした。 そして一乗谷から移り住まわれた人たちを中心に藩の経済が支えられ、受け継がれ発展していきました。