NHKの大人気シリーズ、ブラタモリ。見ているだけで癒されるし、勉強にもなります。その土地の歴史、秘話、地形に残された痕跡に出会いながら、街の新たな魅力・文化などを再発見していく番組です。
いつの日かその土地に行くチャンスがあったならば、その前にブラタモリの記録を読み返しておくことで何倍も楽しむことができると思い、番組の内容を忘れないうちに、このブログの中に「ブラ記録」としてポイントだけを記しておきたいと思います。
神戸港はなぜ良港?1300年の歴史
神戸港は1300年の長きにわたり良港として栄てきました。神戸港が良港である理由は3つのポイントがあります。
- 水深が深い
- 六甲山が風を防ぐ
- 和田岬に守られ潮流がおだやか
ルーツは大輪田泊(おおわだのとまり)。平清盛が貿易港として発展させました。その後、兵庫津として大きく栄えていきます。
兵庫津繁栄の痕跡は西国街道に観ることができます。京都と九州を結ぶ西国街道は当初兵庫津は経由していませんでしたが、大きく発展していく兵庫津を経由するようにあとから街道を変更して兵庫津を旅人や物資が行きかいできるようにしています。
その痕跡が、街道が兵庫津で直角に交わっていることから観ることができるのです。通常は街道は直線に近く、直角ということはありません。
また神戸、兵庫津が栄えた最大の理由は六甲山の立地にあります。六甲山は北東から南西に向けて、ななめに海にむけてせりでているため東西の往来はかならず神戸を通らなくてはなりませんでした。
斜めの理由は長い時間をかけて岩石が両側から圧されることによってX型に亀裂が入り大陸が分裂したことによります。六甲山はXの右上の部分。Xの左下は淡路島にあたります。そしてXの中心が海峡部分にあたります。長い時間をかけてこのような地形になったのです。
大阪は琵琶湖からの水の流れで遠浅となり土砂がたまるが、神戸は六甲山からの水しかないため土砂がたまらなかったことが神戸港は水深を保っている理由です。
神戸港の栄えた理由として、良質な水であることも挙げられます。船乗りの間では「六甲山地をとおる水は赤道を超えても腐らない」とされています。
なぜ腐らないかは、有機物(不純物)が少ないから 六甲山が急峻なため有機物が水に混じらないのです。また硬度が30で飲むのにいちばんよい硬度とされています。
また人工的にも明治時代に洪水により貯水池に泥が入らないように設計されていて良質な水を保っています。
神戸北野。日常の中に西洋を感じる町。神戸はなぜハイカラ?
西洋と東洋の要素が入り交じっていることをハイカラといいます。語源はハイカラー。襟の高い服からきているそうです。
神戸北野は三宮駅から北に向かって曲がりくねった坂を上ったところにあります。北野天満神社があり、古地図では神社の横は池でした。
現在はその池のあった場所に神戸ハイカラのシンボルのひとつ風見鶏の館が建っています。つまり昔は池だったところに作られたのがこの館であったためつくりも半地下となっています。
昔は池があり、まがりくねった坂道、あぜ道であったことから、北野はもともと農村であり、坂道は段々畑だった、そしてこの農村に外国人が入って家を建てたということななるのです。
江戸時代から明治にかけて外国人だけが住むことのできる場所を「居留地」と言い、外国人が日本人と同じエリアで住むことが許された場所を「雑居地」と呼びました。神戸北野は「雑居地」。外国人と日本人がともに住むことのできるエリアになります。
神戸は「雑居地」の数が当時同じく開港された他県に比べ圧倒的に多く、その数は1717もありました。
明治21年~24年の調査では、横浜と長崎は雑居地がありませんでした。函館(76)、新潟(19)はごくわずかな雑居地の数でした。
ちなみに居留地は横浜(4562)、長崎(959)、神戸(320)という当時の記録が残っています。
神戸の「居留地」では150年前に使われていた居留地の番号が現在でもつかわれています。横浜などの居留地は土地と番号が順番に整理されて並んでいますが、神戸の居留地の番号はバラバラです。
これは神戸の開港が、幕末の混乱期と重なってしまい、居留地の整備ができず番号がばらばらだったためとされています。ちなみに新潟は戊辰戦争の影響で1869年開港。
神戸開港は1868年。1858年日米修好通商条約で横浜、長崎、函館、神戸、新潟の開港が決定され、翌年1859年に横浜、長崎、函館は開港されましたが、神戸の開港が朝廷から許可されたのが1867年と遅れたために、幕末の混乱期と重なってしまったのです。ちなみに新潟は戊辰戦争の影響で1869年開港しています。
居留地の整備が遅れたことから日本政府は神戸に大規模な雑居地を認めました。居留地の範囲を自然の地形を使って区分けしたのです。自然の地形とは六甲山と2本の川に囲まれた広大な区域、この広大なエリアを神戸港の「居留地」としました。
自然をつかった区分け。これにより広大な居留地が生まれたのです。
また当時日本人が住む大きな居住エリアである「兵庫津」と外国人が住む「神戸」が 湊川 (みなとがわ)で分けられました。 湊川 は天井川でした。
天井川とは、川の流れが運ぶ土砂(どしゃ)が堤防内にたまって、川底が周囲の地面よりも高くなってしまった川のことです。 この高い土手が日本人の暮らしと外国人の暮らしを分ける役目をしていたのです。
ところが年月がたつと日本人と外国人の交流も盛んになり、神戸と兵庫津を分け隔てるこの高い土手が邪魔になってきました。
明治30年、天井川は埋め立てられ、削られ、坂に繁華街をつくり、大通りで兵庫と神戸を行き来できるようにしたのです。この地域を「新開地」と呼びます。湊川は迂回する形で兵庫より西から海へ流れるように人工的に整備されました。
その後、神戸と兵庫が融合されハイカラ文化が発展していきます。
兵庫に製粉工場 がつくられると小麦粉の最大生産地ともなり、洋菓子、瓦せんべいなどが神戸から全国へ広がっていきました。
神戸市の市章は2つの半円を組み合わせたデザインですが、この2つの半円は神戸と兵庫の港を囲む形を表しています。